大屋根の下で、見えてきたこと
当山では、北の都札幌七福神霊場の恵比寿様と布袋様を勧請し、新年には団体・個人を問わず多くの皆様にご参拝をいただきました。
また、木仏文殊大菩薩様の御前では、散念棒を折る乾いた音が小気味よく響く日々が続き、新年ならではの静かな景色が広がりました。
小正月は、新年最初の「満」とされる節目の日です。当山でもこの日をひとつの区切りとし、正月のお飾りを外します。
それは何かを終えるためというより、年の歩みをあらためて整え直すための、ささやかな作法のように感じられます。
寺内では無病息災を願いぜんざいを囲むひとときが生まれます。
小豆の赤に込められた邪気払いの意味や、古くから続く日本の暮らしの感覚が、今も静かに息づいています。開門前穏やかな気配がその場を包みます。
参拝に訪れる人々の姿は、今も変わらず真摯です。それぞれが自分なりの向き合い方で、この場に立っています。
ただ、その背景に透けて見える時代の空気には、かつて感じられたような活気や勢いが、少しずつ薄れてきている兆しも感じられます。それもまた、今という時代の自然な姿なのかもしれません。
文殊大菩薩様の御前では、散念棒を手に取り、しばし立ち止まる人の姿が見られます。
その所作は静かでありながら、確かな順序を持っています。
文殊大仏様の前に用意された散念棒は、力を試すためのものではありません。

ご案内と、折り終えた散念棒の山
散念棒は、利剣が振るわれる前の、心を静めるひと呼吸です。
世の中で言われる「棒を折る」という意味合いとは異なり、ここでは、抱えすぎた考えや、すでに役目を終えた思いに、自ら区切りをつけるための所作として置かれています。
文殊の利剣が迷いを断つものであり、散念棒はその前に行われる、心を静め整えるための行いです。

手に散念棒、折る前にひと呼吸
手放すものを心に定め、その思いを静かに念じています。

散念棒の折れた瞬間
小さな音と感触が、心のざわめきをほどいていきます。
ここで一息つきます。
捨てるものを定め、散念棒を折ることで、ようやく、文殊様に願いをお伝えする瞬間が訪れます。この一瞬のために、すべての所作があります。
小正月は、新しく始める日であると同時に、これまで積み重ねてきたものを、静かに確かめ直す節目でもあります。
進むために何を足すかではなく、何を手放し、どこに立ち戻るのかを見つめる時間です。
大屋根の下で交わされる参拝の姿や、散念棒の所作ににじむ一瞬一瞬は、今という時代の空気を映しながら、それぞれの歩みを、足元から整えていきます。
満ちた月の下で迎えるこの一日は、新年の歩みを支える確かな時間として、今年もまた、静かに巡ってきます。

